Yoga  Citta  Vritti  Nirodhah.

​ヨガ・チッタ・ヴィリッティ・ニローダ(格言)…ヨガとは 心の作用を制御することである

心の科学・・・意識の探求 自分につながる求道
~お問い合わせいただくご質問を掲載します

…初級者向け…

*ヨガは「ヴェーダ経典」に始まります

 ヴェーダ経典を礎に生まれたインド哲学思想の一つであるウパニシャッド哲学からヨガ学派は生まれ、世界中で愛され活用されています。ヨガは太古の人たちが生み出した『心を平穏にして生きる知恵』です。それぞれの流派の基になっているのは『ヨガ・スートラ』といわれています。実践者から実践者へと受け継がれた膨大な知恵を、体系別にわかりやすく凝縮し、明瞭に記し残したとされています。

 ヨガとは心の科学です。人間の心と体を深く理解するためにあります。

*ヨガスートラの読み進め方

 初めて読まれる方は、まず137ページの実修部門からをお勧めします。生活の中ですぐ実践できそうなヒントが解説されてます。本の筆頭には、哲学と独特な有神論が展開されているので馴染みにくく難解だと思います。理論は後でも充分追いつきます。実修が進むほど、成就→三昧→絶対部門とすすみ、全容が把握できるようになります。ヨガ行法は、確かな知(格言)と体験が結びつく実践法です。日々の実修で学んだものは、ジグソーパズルの一ピースにすぎません。たくさん揃ううちに、点と点が結ばれて一つの大きな絵になるようなものです。お楽しみで進めてください。ご質問は施術中にいつでもお受けしております。

 

*ヨガ行法とはなにか

 心と体と命の根源をつなぐ意識の探求です。体操 = ヨガではありません。皆様が馴染んでいらっしゃるのは、商業化されたヨガでしょう。私たちの人生は、毎日あらゆるところで選択を迫られ、最も適しているものを選んでいます。その選択肢は、自分を幸福にも不幸にも至らせるものです。『意識』そのものを深く研究するのが行法です。私たちの意識はエゴレベルと、自他を幸福にかならず至らしめる意識の二つがあります。苦悩をつくるのはいつでもエゴ意識です。二つの分岐は頭の識別によります。ヨガ行法は意識を探求し、エゴの惑わしを越えて、かならず自分を幸福にする意識に『つなげ直し・結び直し・結合する』ために行います。

*古典的なヨガ行法とはなにか

 現代は、肉体を鍛えていくことで根源と一つになると説くハタヨガから派生したもの(動的)が主流になってます。ハタヨガ以前の古典的なものは、意識から雑念を払う訓練が主で、それらで平静を可能にし、さらに瞑想で静寂(ニルヴァーナ)に辿り着くようにするものです。涅槃に辿り着くように説いた仏陀の教えと重複するところが多いです。心を洗う如く体も…という具合です。よくご質問を受けますが、仏性とは宗教ではなく道徳です。

 わたしがスリランカに行った際に感じたことですが、意識を整えること・体を整えることは、けして特別な習慣ではありません。信徒だからすることでもありません。文化なのです。不調の原因を根源から外すためにヨガがあり、だからこそ人をよく知るドクターが指導します。古典的な生活行法がそのまま身近に存在しました。

*ヨガ行法は自分に戻るために行います

 命の中には、世界にひとつのあなたらしさを最大に引き出す力があります。フルに活かすためにあるのがヨガ行法です。そのため職業、性別、年齢を問いません。調和のとれた自然体と洗練された意識があるとき、誰でも最も発揮されやすくなります。近代的生活を送り続けていると、いつのまにか人間の基本的能力から遠ざかり、エゴが増長する力が発達します。エゴはかならず不自然に至らしめます。命の根源は、不自然(=苦痛・苦悩・迷い)という形で、私たちに軌道修正するよう気づかせているのです。そうした問題を俎上にのせて、本来の自分に戻らせるのがヨガ行法です。

​*ヨガ行法は知識探究ではなく 日常生活での実践探求です

 ヨガは人間のあらゆる側面(心理的・身体的・知的・精神的ならびに社会的)にアプローチを施すものです。机上の知的旅行ではなく、実践による体得が目的です。毎日の生活でコツコツと積み重ねていきます。まるで植物を育てるように長い時間を要します。ヨガ行法は、教室参加や形式的なレッスンカリキュラムを熟すようなものとはまったく違います。

ヨガ行法とは 五頭の馬と車体と騎手の関係です

 ヨガ行法とは、肉体に散らばる各知覚器官と意思を統制し直し、人間の行動そのものを抑制する学びです。馬車に例えます。知覚器官は五頭の馬、騎手は意思、騎手と馬を繋ぐ手綱は知覚神経、車体は肉体、客人もいます。騎手は馬を育成するだけの根気と高次な意思が必要です。車体のメンテナンスも欠かせません。騎手は常に馬を統制する支配主なので、集中力と理性が日常的に必要です。

 馬車が泥濘・荒道・過酷な環境下に遭遇しても、騎手の高度な理性によって容易く走れるように訓練します。馬車の客人(命の根源)のために、磨いた車体と五頭の馬と騎手がひとつとなり、道を走り続けるようにするのがヨガ行法です。

*我心から私たちを解き放ち 自由でイキイキした生き方へ

 私たちは常日頃、エゴの習慣に縛られています。歩き方、食べ方一つにしても我心が関係しています。知らぬ間に私たちを不自由にし、一つの考えに縛りつけさえします。そうして不健康や不調になるのです。自我中心的で他人さえも巻き込み、なんでも思い通りにしたがるものです。行法は、エゴがつくった癖や業(カルマ・情動)を解いていきます。人をコントロールしないされない関係で、自分の意志で動きます。人と人とがお互い自由でイキイキした生き方につなげ直します。

*規則正しい生活にトライし 自己管理能力を向上させます

 主役として生活を営むとき、自己管理能力の有無がはっきりします。ぜひ三日坊主を越えてください。管理が持続しない場合は依存性(=エゴ)が優勢です。ヨガ生活が浸透していくほど質の良い生活に近づきます。主役として生活を営みますので自己信頼度はどんどん上がり、健全な自己愛が育まれます。自己管理能力はヨガを上達させる要です。自律性と自己管理能力は精力(オージャス)を高めるので、心も体も軽くなります。これらが社会的側面をも向上させ、自分らしい働き方も可能になります。

*肉体訓練法って どのぐらいやったらいいですか?について

 肉体訓練法(アサナ・ポーズ)は生涯において日々やり続けるものです。肉体は才能の宝庫です。人生はこの肉体なくして味わえません。管理の届いていない肉体のストレスは、人が思う以上に足を引っ張ります。特に中高年層になるほど老化は加速します。エゴの惰性や悪習慣によって、歪みや問題はひとりひとり様々です。標準や一般は通用しません。肉体訓練は、命への感謝を忘れずに日々工夫し続けるものです。

 

*ポーズは 何回やったら修得できますか?について

 形式的な訓練は体得とは違います。行法でもありません。個人の肉体は世界にひとつだけ。人と同じように考えるものではありません。回数ではなく内容に最も左右されます。ご本人の記憶力・洞察力・考察力・創意工夫力・実修力ならびに筋肉の質や状態によって、個人差が生じるものと心得てください。

*SNS普及の盲点 我流のエクササイズに注意しましょう

 私たちの生活に、ネットワークは欠かせなくなりました。だからこその問題が潜んでいます。それは我流のエクササイズによる故障です。見よう見まねでやり続けている人をお見かけします。あのような動作を自分もしているはずと錯覚を起こしています。見た目に拘っていると、誤認識・錯覚・代償行為(主たる筋肉を使わずに、補助筋を使ってそのように見せかける動作)が生じていて、怪我の原因になっています。専門知識をもつ人のところに出向いて、個人的に確認するようにしてください。ヨガ行法の肉体訓練は、精力を上げるために『丹田』『上虚下実』を基本に習得します。

*上達する人と そうでない人の差はなんですか?について

 上達する人とそうでない人の違いは、自己管理能力と反省する力と勤勉性が、あるかないかだと思います。一言でいうならば、学習能力があるかどうかですね。

 上達しない人の特徴は、習い事の日が来たらその場へ出向き、そこで提示されたものをただ一緒に模倣する体験です。一緒にやって出来た、身についたと満足しがちです。この状態を続ければ万全だと思われる方が大変多いのです。これは誤認識です。

 まず記憶していません。思い出せないので自宅では何もやってないケースがほとんどです。指導者が目の前に居ないと何もできない状態で、いわゆる学習と遊戯を錯覚したわけです。こちらは心に依存性がたくさん残っている人の行動です。

 上達する人の特徴は、まず人任せにしません。学習したことを持ち帰り、日常で体得するまで自主的に工夫し、反省や考察をしながら何度もつなげ直しています。自主的な気づきが必ずあります。こちらが本当の学習です。このように自分の意識が何を選択しているかで差がでます。

*ポーズが出来ないと 先には進めないのですか?について

 そんなことはありません。体操 = ヨガではありませんから。ヨガ行法では、まず肉体を通して意思を是正するきっかけを得ているだけです。ヨガマットの上でメンテナンスをしたあと、自分をどのように使うかがとても重要なのです。呼吸は心理状態を明確にしますから、社会生活を送る自分の心理状態に気づきやすくなります。肉体の生理作用が活性化すると脳の働きも活性化しますから、清々しい意識で有益を選ぶよう実修してください。ヨガの精神部門はどんどん進みます。

*簡単な心得を持っておくと楽しくなります

・やり過ぎ やらなさ過ぎにならないようにしましょう

・基本を大事にしましょう

・訓練の量は 訓練後に体がほぐれて心地良いと思える程度にしましょう

・ちょっとずつ負荷をかけて能力の向上を目指しましょう

・継続は力なりと心得ておきましょう

・結果にとらわれるのではなく 実行と存続に意味を持たせましょう

・価値は手間に比例します

…中級者以上…自分で気づくが基本

*五感コントロール法 偏見を生み出す欲望と思考を浄化し 心に平穏をもたらす精神鍛錬について

 求道者は、積極的に日常生活の情動・習慣を正していくように努めます。すべてはエゴを律して自己浄化するためです。外に原因をみるのではなく、内に集中し、問題定義や評価を行っていきます。たとえば『あなたが○○だから』という言葉は他責ですね。『私が○○したので』で内省すると気づきが多くなります。ただし、自責・自罰ではありません。鍛錬において非生産的な意識は意味を持ちません。苦痛・苦悩・迷いが生まれたら、それこそが積極的自己鍛錬の材料になります。ありのままの自分を温かく受容し、原因と結果をつなげたあと、改善策を自分で打ち出します。創造力は助けになります。仮説に基づいて自己研鑚し、真相に近づいていきます。いわゆる救い主は自分なわけです。熟達者は同志です。相談したり意欲を分かち合いながら精神鍛錬を重ねていきます。

*修道場では落ち着くのに 日常に戻ると心が乱れるのはなぜ?

 海外のアシュラムに行ったときはとても落ち着くのに、日常生活に戻ると心が乱れるとご質問を頂きます。これは五感と肉体と意思が、未だ外側の物質条件に多大に依存している証です。正直に申し上げますと、あちらで落ち着くのは、五感から入ってくる情報が変わったからです。外側の条件で心が鎮まる状態は、上達したとはいいません。

 求道者が目指す境地は、喧騒な場所であっても、まるで静かな場所に居るかの如く、五感と意思を統制し心を鎮めることです。

*精神修養は自問自答が欠かせません

 古人は精神鍛錬を鋭い刀づくりに例えてます。鋭い意識は真相を明かしますし、一朝一夕には出来上がらないものだからですね。人生は何が起こるかわかりません。古人は極限状態に追い込まれたときの行動で、自分の姿がよくわかると言い伝えています。大きな試練ほど成長のチャンスです。自問自答が欠かせません。強靭な精神力は誰かにつけてもらうものではなく、自分で育むものです。こうした中でだからこその閃きが、とても重要な鍵になります。是非創造力を発揮してください。エゴに囚われない無心から動きましょう。トライアンドエラーでかならず鍛えられます。

*自分の頭を使って鍛えるが基本です 自在の本当の意味

 師弟関係において、弟子が頭を使わずに、師匠から教わろうとすることはありません。師匠はむやみに弟子に教えませんから。弟子自身が問題に気づいて仮説を立て、因果関係を立証し、師匠の前でその結果を開示します。自在といいます。弟子が体験した精神療法を説明するとき、本人の知性と理性が発達します。師匠は、弟子の脳(意識)のレベルを自在で確認するのです。着実に意識の問題(誤認識・錯覚・妄想・記憶)を解いて、レベルアップするのを待っているのです。シャーマニズムや宗教の枠をこえ、脳の開発は欠かせません。心を乱す意識が頭の中から消滅していけば、誰を介さずとも静寂をつくれます。昔ながらの修行法は、すべてヨガの最終段階の独存知・精神統一・三昧に到達するためです。

*段階的・科学的に一つずつヨガ求道は深まります

 粗大なもの(肉体)から順に取り組んで、いずれ顕現するであろう微細なもの(行動の動機・心象・生理作用)を手掛けます。かなりの集中力が必要になります。人間の心は、無知な考えをもとに願いが叶わないと憤怒したり、エゴの正しさを証明しようと執着まで起こします。これを『煩悩』といいます。心が落ち着かないことを雑念が多いといいますが、煩悩が多いからなのです。

 心の修養を積み重ねると、善因善果・悪因悪果の関係を容易く見つけられるようになるので、抱えていた条件反射や記憶の想起が徐々に減っていきます。実践者は、科学的検知からも見直せるようになります。ときが経つにつれて心も体も軽くなります。

 感傷的に物事をとらえることはなくなり、精神集中(動禅・静禅)が日常全般で適います。求道者はリトリートのような刹那的な安穏ではなく、日々充足と安穏が可能になります。

*求道者が常に問われるのは理性です

​ 狂信や盲信ならびに脱線する原因は、理性の欠如です。教えを奥深くまで学べば、どのヨガにも常に理性が必要と説いています。時期尚早者から教わることが誤りの始まりだと教えています。

 本能は動物のもの、理性は人間のもの、直感は神人たちのもの。理性は本能を抑制し、理性は発達すると直感に近づきます。理性で到達できないものを直感が明らかにすることがありますが、直感は理性と矛盾することはけしてありません。理性だけが迷いや浅はかさから救ってくれます。

 人間ってエゴの都合を正当化するのに『直感(神性)・直観(仏性)』に違いないと思い込んだりしますけど、真の教えの第一の証拠は、理性に矛盾しないというものです。

*答えは必ず内にあるの意味

 ヨガ哲学は、個人の内に存在する『命の根源・魂』につながる学問です。この命の根源は『智慧の源泉』と称されてます。智慧 = 理性 = 自然の法則・理法です。外に答えを求めて奔走しなくても、いつでも智慧は無心なとき、私たちの中に在ると体験させようとしているのです。どんなに沢山の教えを外に乞うてもヨガの本質には届きません。自分でやって確かめるのです。そのため密教といわれています。

*人生が暗闇なときほど ヨガの教えは光です

 心が負のエネルギーに染まっているときほど、ヨガの教えはまるで暗闇に射す光そのものです。けして安易に染まることなく、迷路の出口へ導きます。ヨガが深まるほど、その教えの素晴らしさを実感します。暗闇は真の成長のためにあるだけです。外の世界は、内心の反映にすぎません。混乱したときほど心をよく観ることです。鏡の法則・引き寄せの法則・類魂の法則は古人の教えです。自己成長の場を自らつくっているのです。懐中を探って浄化してください。タイムラグはありますがリアルに外側は変わっていきます。

*心を清浄化すれば 自然と瞑想は叶います

『ヨガを学んでいる者は沢山いるが、ヨガに辿り着く者はごく稀である』と、先達からお預かりしています。手順を踏まず時期尚早に行うと、誤った情報に身を投じたり、自己暗示にかかったり、幻想に振り回されるので、本来のヨガや瞑想から遠ざかります。雑念を払う修練を端折らず地道にいきましょう。瞑想(静禅)= 精神集中の持続は、集中が深まれば自ずとなるものです。わかるときがくればわかるもの。自然現象なのです。その日が来るのを楽しみにして浄化を続けましょう。

 日常生活で一人静かに座る時間を持つのはよいことです。人間の脳は、何か一つに集中すると、他のことが思い浮かばなくなる習性があります。苦楽や悲喜、さっきまでの自分からいったん離れ、リセット時間として活用するのは心に良い影響を与えます。

*ありのままを越えてあるがままへ

 ヨガ行法とは、エゴを越えてあるがままを目指す修養です。長い修養期間のなかで、それがエゴなのか、それとも自他を活かす『命の根源・自分』そのものなのか、識別がつくようになります。ヨガ行法が深まるほど宿命をそのままに受け入れ、自らを曇らせることなく、ただ存在を活かして生きる人生になります。自由自在、それをヨガでは『魂への回帰』といっています。目指したいですね。

*心は真心のためにあるもの(解脱)

 求道者が多くの精神修養をすませたとき、心のエネルギーの謎を解きます。心の安止が叶います。これを解脱といいます。我心が無心になり、真心で生きる(三昧)悦びは、実践者の努力に対する恩寵です。

 

​わたしがヨガを知った頃から30年以上の月日が過ぎています。あの頃よりも大勢の方々が多様なヨガに触れています。ぜひヨガ本来の心の科学にも触れていただきたいと願っています。

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自己鍛錬能力の向上・正姿勢への気づき

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​ヨガの最終目的・独存知と歓喜法悦感