自己実現とは自分を社会の中で存分に奏でていることを指します。
この状態をどう作るのか、アーユルヴェティックライフで考えていきましょう。
聞いたことがあるかしら?
寂静。禅定。そして三昧。
動と静が互いに中和され統一し安定しています。
このとき、脳波も内臓の働きももっとも整っています。
この状態に近づいていこうとするのが日々の実践冥想行法です。
目指すは調身・調息・調心。
調身について、書籍をそのままに載せますね。
先日の「上虚下実」の補足でもあります。
目を閉じて腰を伸ばし、胸を上げ、脇下には卵一個入っている心地になり、
顎を引いて首肩の力を抜き、腹を真っ直ぐにし(凹ませも膨らませもしない)、
肛門を締め、下腹部だけに力が集約されている状態になります。
このとき胸は張られていますがみぞおちとともに力は抜けており、
下腹の上に、腹を上向きにする力で上体の重さを担っているような心地になります。
下肢に上半身の体重が乗り、重心は下腹部と下肢。
上半身は無理な力を入れずにスッと背筋を整えて下半身に乗せてる感じ。
安定性を高めてるから、静かに座っていても仕事で動いていても、
首と頭部は軽快に動きやすい。
次に調息。
調身すると呼吸が自然と整います。
肋骨が無理なく動くため、呼吸作用が高まり完全呼吸がしやすい。
酸素量が多くなります。
深い呼吸はそれだけで副交感神経を刺激し高めます。
呼吸に関わる筋肉はご自分で意図的に動かせますから、いつでも副交感神経に働きかけられます。
調身と調息で交感神経(動)と副交感神経(静)の均衡がとれるようになるってわけ。
そして最後は高度。調心。
統一放下法といって、無心になる行法。
最初は一物に集中(統一)します。対象物(仕事とか)に集中していくと、
意識がそれに向いているという意識すら、途中から消失しますよね。
集中が高まると「それ」をやってるとかの意識もなくて、
「それ」と一心同体になって一緒になって動いてます。
この状態を夢中になってるっていいますでしょ。
何か一点に集中していると、その以外のことが頭に浮かばなくなるって仕組み。
これが無心。寂静。
無心で集中が持続している状態を禅定。
雑念がなくなると効率は物凄ーく高まります。三昧。
これが極度に高まっていると、一芸に秀でる人になります。
(※補足は最後に)
仕事はナイスな教材。自己研磨を存分に味合わせてくれる場。
無駄に高みを狙わずとも、目の前のものを確実に向上させることが大事。
熟考を続け機が熟すときは任せる。人智を尽くして天命を待つ意識。
日中はしっかり動いて、夜間はしっかり休養。
質のいい休養をしなければ、質のいい生産は無理だものね。
身体も呼吸も心も整うときは、意識も清んで取捨選択が上手くなります。
その人の才能が高まって『自存』が可能になっていきます。
これが自分らしい生き方 = 自己実現というわけね。
流れを掴んでいただけたかしら?
毎日の生活で、自分を使って自分に必要なものをつくり、
自分に必要でないものはさっさと滅して変容していく。
自浄、自善で精神的に成長し、
目標を達成する日常に自らトライしていきましょう。
そんなの無理という人も、
今日から自己定義を改めて、
動と静を中和統一する生活をやってみよう。
あなたがあなたを社会で奏でるためには、
いい言葉を使って自己定義を創り出し、
あなたを本気にさせ、あなた身・息・心に集中するのが近道です。
※補足 (信仰・修行を勘違いしている人たちへ)
集中力が極度に高まっていると、一芸に秀でる人になります。
命の高まり= 神技 っていうでしょ。
言葉のごとく、
自分の中に神様があると考えて、
生命作用とガッツリ繋がって自分を尊ぼうとするのが実践冥想行法。
だから古典のヨガ行法では、
『生命作用』以外の創造神が特別に存在したりすると信じたり、
そういう特別なものだけが拝む対象だなどと解釈するのが、
迷信・妄信・狂信だとしています。
生活の中で行じ、行じて人間の理を見つけるのみが密教。
心に沁みる言葉があったら、それが本当か行じて確かめる。
真似てもそれは理ではない。
行じて自分で掴むから奥儀、真理。
もしそれがヨガ行法であったなら、
カリスマ的なものを外に追いかけたり、
課程を熟したら修了なんてスクールごとや、
マインドコントロールされることはありません。
新興宗教とも別物です。
それは理ではないからです。
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