人に生まれることは、
人間を知るチャンスを得たのよ。
同時に、
自分の個性も、
理解するためのチャンスも得ているのよ。
誰かを通して、自分を良く理解していくために、
生きる時間を与えられていると考えてみてください。
例えていうならば、1000ピースジグソーパズルの完成の為に、
いつも漏らさずひとつひとつを吟味するって感じかしらね。
甲乙つけることなく、受容すること。
だからまず自分を理解して、出来るところから人の為になろうとするといいんじゃないかしら。
人の評価に合わせて生きていくことが、幸せなことだと言い切れるものでもありません。
ときに、相手にYESを言い続けたことで、
本心を却下し、自分にNOを与え続けて苦悩に陥る人を視ます。
人に喜んで貰ってやっと心が喜んでいる状態ではなく、
人に何かを自発的に行った行動に気持ちが良くて、喜びがあるかどうかを、
最初に気づいてあげることだと思います。
自分を良く視てあげて欲しいです。
等身大の自分は、NOを本当は伝えたがっていることを疎かにしないこと。
自分の度量や意見は、
出来事や人を通してわかるものです。
それが等身大の自分を知るということ。
私達は、生きていれば人と出会うたびに、
新しい自分に出会っているだけ。
相手にNOと言いたくなった自分の個性があることを、
受容し表明するとき、自分らしさで生きている手応えが、
不器用でも存在するのだろうと想います。
たとえそれがまだ初歩的で、原始的でも自分よ。
そんな自分の一面と、「一緒にこれからどうしていく!?」と呼びかけて、
共に成長する喜びを時間の中で味わえていけるのが、
人に生まれて生きる喜びのように思います。
人は自分自身を疎かにすると、虚無感に襲われる心の仕組みを持って生まれています。
人の心の本質と、個性の理解と活かし方を、教え合い育むことがとても大事です。
人が出会い互いに助け合うことは、けして人の犠牲になることとは違います。
スティヤーナ「無気力な心身状態」を、脱して生きたいと願うならば、
小さな心がけと思考の変化が大事なんだと思います。
人と出会って、そのたびに新しい自分に出会う喜び。
人と出会って、そのたびに古い自分にサヨナラする喜び。
人と出会って、そのたびに自分の音色に驚かされる喜び。
二つと同じものがない喜びを、
お互いに忘れないように生きることが、
お互いの幸せを願うことなのだろうと想います。