
馬鹿馬鹿しいと思うものにも、存在する価値が何かしらある。
くだらない綱渡りが楽しいと思えた時もあります。
少なくとも私にはあった。
落とし物を探す子どものように心が暴れ出す経験をしています。
目に映るモノを識別する力がなかったから、
自分にとって必要なモノはなんだろうと飛びついていた。
でも誰かが作った価値観では満足しない自分がどこに行っても心にいる。
だから自分を知ることを脇に置くわけにはいかない。
それが心が暴れた理由だった。
空っぽにして自分で選んだものを入れていけばいいとなった。
それが「私」になって、いずれ「らしい生き方」に繋がるはずだろうとあたりをつけた。
指揮官も識別者も他人じゃない、自分です。
自分のために自分が責任を負うことを決めた。
そして気づいた。
鎮める力がなかった。
だから鎮める力を持った。
大丈夫。待て。
そんな声を掛けられる様になったら、
鎮める力が目移りした心を止めている。
しつけの意味をそこで私は知った。
私を止められるのは自分だと。
よく聞いてやる。
なぜそれが必要だと思っているのか。
話し出すまで聞いてやる。
とことんつき合ってあげることが心には必要です。
そうしたら暴れ出さなくなった。
鎮める力、
それが愛ってもんだと知った。
心を自分の力だけで鎮められますか。
それが自分を知るってことです。
(つぶやき)
哲学の愛からあえて宗教観を外して使用すると、心理学の愛着形成とよく似ているのを見っけた。
社会文化に流れているベース音が違うと、学習方法が違うんだよね。
学び方は一つじゃないから興味があったら調べてみてください。