「心」の落ち着かせ方について古の教えを学んでみましょう。
人の「心」は居場所を欲しがる習性があります。
居場所で誰かに見守られ落ち着かせてもらう経験が必要だと言います。
そうした「心」の充足が事情があって得られなかった場合、
なぜ生まれたのだろうかと、
自分の人生に大きな疑問と「心」に虚しさを抱えてしまうのだと。
そうした過酷な人生を生きることになっている人たちに、
古の時代では宗教観を作って教えていました。
お父さんとお母さんに見守られ大事にされて生きている人と違って、
何も自分を守ってくれる人がいなかった場合、
心の不安定さはその人をひどく蝕んでいきます。
この時に「まるで誰かが見守ってくれているように想ってごらん。
そうすると少し安心するはずだよ」と人間の感覚を利用して、
「心」の習性を落ち着かせていたのですね。
さらに人間関係に及ぶ物理的距離感は非普遍的です。
親が居ても死別が起こりますしね。
見守る人の思いも移ろいやすいものだったりします。
入れ代わり立ち代わり変化が何かと起きます。
その変化に伴って一喜一憂しやすい習性が「心」にはあります。
そこで変わらない「普遍的な役割」が何かあってくれたらとても心強い。
案が生まれる。
それらの条件を満たしてくれている象徴があの「神様」ってわけ。
人の中にそれが「まるで在るかの如くの感覚」が生まれると、
「心」の不安定が落ち着くことが可能になると見つけたのね。
人の為に人が作った宗教観。
現代心理学で言えば「愛着の形成」を見事に利用していたことになります。
賢いですね。
現代では、
身近な所で護符やお守り、形見分けやパワーストーンなんかが、
その代用品として解りやすいのではないでしょうか。
古の時代に「心」の研究をなさった方がいらっしゃったのでしょうね。
こうした人の為の教えが世界中に広がって、
哲学や道徳観を方々で生み出しています。
「誰かがまるで見守ってくれているような感覚」を自ら作って、
不幸を選ばない。
これは現代でも使えるはずです。
見守り手が親でなければいけないというわけではありません。
そこに拘ることで苦悩が続いて、
不安定になっていることが起きています。
心の不安定を何とかクリアしていくために、
古からの知恵を拝借するやり方もありだと思います。
あなたの身の回りに在るもので、
形に拘らずに何か新しいものを見つけてもいいんです。
あなたが幸福に一歩近づく選択は、
思い掛けない場所にあるものなのかもしれません。
感覚を作って穏やかな心を取り戻した人は、
なぜだか肌が綺麗になるのよね。
外にばかり目が向いていたエネルギーが必要なくなって、
くすみがホントに不思議と取れていく。
私たちの身体は「心」のあり方によって、
随分と変わってしまうイキモノらしいです。